しかしながら・・
私自身はもう立禅していないということ。馬歩も含め週に一秒もしていない笑
走歩の摩擦歩とか、四股とかはたまにやりたくなるからやる程度。
ただ、前記したまず1段階になるために、これは必要な経過だと思うので、やるように指導しています。
あくまで自己を知る方便であって、これ自体は目的ではないですからね。
自己の統一体を作れば・・大人がハイハイの練習がいらないように・・
やる必要がなくなるというか、それ以上のことを常にやっている状態になるんじゃないかなと。
細かいとこまで考えると結局ものすごくシンプルで、なんだこんな事かよ・・
という話になると思うけど、いろいろ幻想を持ったりして自分で複雑化してしまって、悩んでメンタル病んだりするのは全くバカバカしいことです(自分も散々そこに引っかかったけど)。
実態は神秘でもなんでなくて、体の機能を高めたか否かかな、と思いますね。
もっと自由な動きのなかに、そういう原理のコツがあったりするし・・
結論を言えば・・
立禅しなくてもいいよ!笑
根本の「何か」をつかむ一過程であって、その先もあると思いますね。
極意はクリエイティブな、前向きな、楽しい練習の先にあるもので、苦痛を乗り越えても根性しかつかないですよ。
追記
立禅はふだん全然してないけども・・
全部の動きにおいて常に、もっといい方法がないか、どこか間違っているところがないか、を考え続けている。進化を期待して何かしていることはしている。
これこそが本当の「立禅」であるといえるかもしれない。
考えることをやめないなら立禅自体はどっちでもいい、という意味でもあるよ。
習った通りに正確に立禅というものをやろう、というのが意外とダメだね。
「お前の思う正確さ」こそが・・というのがヒント。